会社案内オー・ジーの歩み

創業前史

創業前史

創業者・井村健次郎が輸入を始めた
サンド社の合成染料で染められた振袖

第1次世界大戦が
染料市場にもたらした禍福

近代染料産業の勃興は明治にさかのぼります。徳川時代から続く旧絵具屋系染料業者に対し、新染料商は主にドイツ、フランス、スイスなどの海外メーカーの代理店として販売圏を拡大していきました。
大正3年(1914)、第1次世界大戦の勃発とともにドイツの染料が輸入されなくなると、染料価格は暴騰し、市場はにわかに活況を呈しました。
当時、染料界の第一人者として活躍していた井村健次郎は、スイスのサンド社より合成染料キシレンブルーVSを輸入。この浅葱系の色で染め上げられた振り袖は、新橋の芸者衆を中心に全国で大流行し“新橋色”と呼ばれました。大戦はまた日本の染料界の自立を促し、それまで皆無であった合成染料の国産第1号が大正4年(1915)に開発されました。近代開化以来の空前の繁栄も、大正7年(1918)に戦争が終結すると、株価暴落に端を発する戦後恐慌が起こり、染料市場も未曾有の危機に直面しました。当時、サンド社特約店・井村貿易株式会社を経営していた井村健次郎は、この危機を乗り切るために染料商の合同論を唱え、賛同者を募りました。

創業期

創業期

大阪合同の創業者、井村健次郎

理想的合同を旗印に
大阪合同株式会社を設立

個人商店から脱却し、改革と刷新を推し進めるために染料商の合同を説いた井村健次郎。そのビジョンに共鳴し、山田留治朗(山田合名会社)、林六兵衛(林六兵衛商店)、河内幸次郎(河内合名会社)、柴田安次郎(柴田安染料店)が集い、大正12年(1923)「大阪合同株式会社」が設立されました。
井村健次郎の唱えた理想的合同論とは、
『夢のある会社』(企業の未来を創るのはロマン。夢がなければ未来はない)
『交流のある会社』(交流こそがビジネスの原点。企業や業界を取りまとめ地位向上をめざす)
『寛容の精神のある会社』(他人の失敗を許容する大きな度量をもつ)
『影響力をもつ魅力ある会社』(企業は変化し前進することが必要)
このような企業としての強さをもった合同体を築くことでした。
操業を開始したこの年、関東大震災で東京出張所が焼失するなど波乱のスタートでしたが、翌13年には震災後の苦境を乗り切るために、強固な企業体質とネットワークづくりに注力。製販一体方式を確立し、合成染料の製造に踏み切ることとなりました。

第2次世界大戦前

第2次世界大戦前

「染織」誌の表紙を飾る
大阪合同の広告

逆境下での幕開け
化学品商社としての挑戦

「大阪合同」設立後の大正末から昭和初頭にかけて、日本経済は金融恐慌、世界大恐慌と大きなダメージを受けました。しかし染料界が不況にあえぐなか、「大阪合同」は染料商各社を合同して企業規模を拡大。外国部を設置してドイツ、イギリスとの取引を開始するなど好調に業績を伸ばしました。
昭和9年(1934)に西日本一帯に大被害をもたらした室戸台風により、生産施設に多大なダメージを受けたものの、新市場を開拓し業績を拡大。日本が戦争へとひた走る昭和12年(1937)には、日仏親善と両国文化の宣揚を目的に建設された関西日仏学館新館(京都)に建設資金を寄付した功績により、フランス政府から勲章を授与されています。しかし時代の流れのなかで、企業活動の戦時色が次第に濃くなっていきました。日本が第2次世界大戦に参戦してからも、中国大陸を中心に製造・販売に力を注ぎましたが、戦時体制下のため業績は上がらず、戦争が終局に近づくにつれ軍および軍需工場への原料供給を余儀なくされていきました。

第2次世界大戦後

第2次世界大戦後

東京支店玄関前での記念撮影

焦土からの再生
弾みとなった朝鮮戦争

戦後、創業以来初めて欠損を計上した「大阪合同」は、「営業・製造とも正業に徹し、闇取引禁止」をうたう経営方針を打ち出し復興に努めました。重要物資の配給制が実施されていた戦後の混乱期には、染料、工業薬品、甘味料の配給実務担当者となり、ベトナムへの過酸化水素輸出に道を開きました。
復興を決定的なものにしたのは、昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争でした。日本経済とともに化学品工業も復興へと加速し、「大阪合同」の取扱商品は飛躍的に増大していきました。家畜の回虫駆除剤として人気を博した動物用獣医薬「ヘルミノック」、宝くじにヒントを得た取扱商品に対するサービスクーポン販売のヒットもあり、昭和29年(1954)には復興への基礎固めを終え、営業拠点の新設や昇格が相次ぎました。しかし同年、長年にわたり舵取りをしてきた井村健次郎が社長現役のまま逝去、一つの時代に幕を下ろしました。

1950〜60年代

1950〜60年代

当時の大阪本社社屋

諸産業の興隆とともに
飛躍的成長

昭和30年代(1955年~)に入ると、時代は神武景気に続く岩戸景気に沸き、日本は奇跡の復興を遂げつつありました。「大阪合同」もまた、酸性染料、尿素樹脂、メラミン樹脂系(製紙加工用)など取扱商品を次々と拡大し、化学品専門商社としての広がりを形作っていきました。
また上げ潮ムードのなか、積極果敢に合成樹脂を中心とする新市場の獲得・開拓に挑戦。化学繊維、製紙、化学工業、食品工業の需要増に支えられ、順調に業績を伸ばすことができました。昭和36年(1961)には年商100億円を計上し、10年間で約10倍もの伸長ぶりを見せました。その後も増収増益は維持したものの、営業エリア拡大に伴う支出の増加、人件費の高騰などが利益圧迫の要因となり、創立40周年に当たる昭和38年(1963)を“利益なき繁栄”のなかで迎えることとなりました。事業面では買収・合併により合成樹脂部門の強化を図るとともに、貿易自由化による国際競争の激化に備え体力増強に取り組みました。しかし、戦後最長57カ月間続く世にいう“いざなぎ景気”に入ると、「大阪合同」は再び取扱商品を拡大。経営の多角化にも注力し、化学品専門商社としてのパワーを遺憾なく発揮するようになりました。

1970〜80年代

1970〜80年代

新大阪へ移転した本社社屋

石油ショックを乗り越えて
3大プロジェクトを推進

日本経済に打撃を与えた石油ショックに対し、「大阪合同」は「人の和」と「堅実経営」の2本柱でゼロ成長を乗り切りました。困難な時期を労使協調で打開するために、大阪合同労働組合が発足。昭和50年(1975)には、依然として出口の見えないトンネル不況にあって、全社組織の変更を行うなど逆風に耐え得る企業体質の強化に努めました。
その後もニューヨーク駐在事務所、マニラ連絡事務所を開設し、逆境をものともしない堅実経営と世界市場を視野に入れた積極攻勢のバランス経営が功を奏し、昭和54年(1979)に年商1000億円を突破しました。
昭和55年(1980)からは、3大プロジェクト(株式上場・本社ビル建設・子会社育成)の推進と改革をスタートし、その取り組みは枚挙にいとまがないほどです。昭和57年(1982)にはグループのコントロールタワーである現本社が完成。また全社統一コンピュータ・システムを導入し、情報化時代への布石を着々と打っていきました。

1980年代

1980〜90年代

現在の研究室

技術開発型の専門商社へ
製販一体の総合力を蓄える

引き続く景気の低迷と円高不況のなか、化学専門商社として生き抜くために「大阪合同」は「不断の努力」と「研究開発」を最重要課題に据えて立ち向かいました。
昭和58年(1983)、対米貿易拡大を目的に現地法人を設立。事業面では化学品・合成樹脂関連の取扱拡大に注力するとともに、合成樹脂の大量生産を改めファイン化に転換。また工業用樹脂の拡販、ファインケミカル市場の開拓、さらに健康食品市場へも進出し、多くの成果を実現しました。一方で盛んに組織変更を行い、時代に合った“イノベーションへの構図”を整えるために努力しました。
バブル経済が静かに進行するなか、化学業界も国際バランスの堅調と内需の伸長により、拡大基調で推移。「大阪合同」は引き続きグループ連携による経営基盤の強化と、高付加価値、高機能商品の開発・取扱に努め、堅実経営を堅持しました。平成2年(1990)には新経営理念を策定し、技術開発型の製販一体化学専門商社をめざす路線を明確にしました。

1990年代

1990〜現在

商号変更と当時に制定された
ロゴ・マーク

新生オー・ジー株式会社の誕生
不変の堅実経営と不屈の
パイオニア精神

バブル経済崩壊による経済界の混乱をよそに「大阪合同」は独自路線を歩み続け、平成3年(1991)、社名を「オー・ジー株式会社」に改称。
「グループの総合力」「高度な企画開発力」「製販一体方式」「顧客第一主義」を経営のキーワードに掲げ、第2の創業の幕を開けました。
全世界が大きな変革とともに始まった1990年代、国内でも円高、雇用調整、アジアへの生産流出、個人消費の伸び悩みなど、バブル崩壊後の不安要素が引き続くものの、「オー・ジー」は手堅い経営指針と確かな足取りをもって、事業を水平および垂直に拡大。環境の世紀を予見し、非木材紙や不織布など環境関連商品の開発にも力を入れ、提案型営業で一定の成果を上げました。

2000年代

2000年代

開発本部設置

「開発本部」の設置による
新たな市場への挑戦

2000年以降になると、社運をかけて「開発本部」を設置しました。従来の事業とは異なり、自ら新市場を創り出していく発想で、「モノづくり」、「全国展開商品の探索」、「新事業の設立」などをコンセプトに、医薬、土木建材、繊維、自動車、電材、環境などの分野を選定し、さまざまなプロジェクトを生み出しました。 「海外化」、「モノづくり」、「高付加価値化」の3大方針の下、海外化を推進し、インドにおける高付加価値商品の生産、中国市場での新ビジネスモデルの創出、韓国での現地法人設立などにより、海外売上比率も増加していきました。

2010年代

2010年代

VISION2023イメージ

100周年に向けて
長期経営計画「VISION2023」
をスタート

2012年には、11年後の創立100周年に向けた長期経営計画「VISION2023」をスタート。「人財づくり」、「ビジネスモデルの変革」、「グローバル化」を基本方針として掲げ、グループ売上目標2,500億円を目指し、事業拡大に向けた様々な挑戦を開始しました。
2014年には茨城県桜川市に太陽光発電所を設置し、新たに売電事業を開始。また成長著しいアジアにおいては、長年営業活動拠点として機能していたインド駐在員事務所を2013年に現地法人化し、2014年にはインドネシアに新たに現地法人を設立するなど、新たな取組みを加速しました。さらに2015年にはタイのバンコクにある化学品・合成樹脂を扱う現地商社をグループ化し、東南アジアやインドにおける事業展開の重要拠点として位置付けると同時に、若手人財の交流と育成を目的とした同社との相互派遣プログラムを開始するなど、3つの基本方針に則り、より多くのお取引先様の期待に応えるべく、グローバルネットワークを拡大していきました。

2020年代

2020年代

オー・ジービル


2020年代

オー・ジービル(内部)

OGグループの専門性・技術力の更なる発揮と未来を見据えた次期長期経営計画の策定開始

2020年には、グループの新たな研究開発拠点となる「オー・ジービル」(大阪府大阪市)を新たに建設。「オー・ジー」の医薬事業推進部と大阪エリアのグループ会社のラボ機能を集約し、評価機能の強化と様々な試験に対応するための新設備導入も進め、受託品目の拡大に向けた体制を構築しました。
また、2019年に新たにベトナムに設立した海外拠点も軌道に乗り、アジア諸国から製紙用薬品を中心としたさまざまな化学品を安定供給するとともに、紙パルプ分野における専門性を武器に現地操業のサポートを開始するなど、グループ一丸となって専門性と技術力の向上を加速させ、新たな価値の提供に取り組んできました。
100周年が目前となった2021年には、新たな時代における次期長期経営計画「VISION2033」の策定を開始。「VISION2023」で得たものを継承し、当社グループのゆるぎない経営理念に示される化学品専門商社としての姿を示すものとして、100周年の先の未来に向かって検討を進めています。

これからも私たちは「豊かな未来を提案して創造する」ことで、より一層グループ全体の価値向上を図り、力強く邁進していきます。

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